旭町三丁目「信綱の山車」のあゆみ
文久年間 | 川越領角泉村(現在:川島町角泉)の笠鉾(鶴亀鉾)として建造される。 |
明治43年 | 大水害で笠鉾の大部分流失。鉾飾りと鶴亀の彫刻のみ角泉の祭当番の長老が死守。(現在の山車太平鰭にある彫刻に文久2年の銘) |
昭和15年 | 皇紀2600年を記念し棟梁 猪鼻子ノ助により笠鉾再建。 以降、昭和16年・23年の二度水害に遭い損傷。 |
昭和27年 | 猪鼻子ノ助、重一親子により大修理、角泉囃子連が二重鉾の山車を新調するに至り、以降長く、慈眼院に解体保管される。 |
昭和49年 | 3月旭町三丁目囃子会(現在の信亀会囃子連)結成。初代会長 島崎儀輔氏 6月猪鼻秀穂氏(町内在住)の兄、重一氏により旭町三丁目囃子会に山車譲渡。 10月大規模修繕成り、お披露目。初の居囃子。 11月喜多院まで山車曳行。菊花展に展示お披露目。 |
昭和50年 | 10月1日川越市指定第25号山車に登録成る。 10月12日川越総鎮守氷川神社宮司により入魂式。 10月14日初の山車町内巡行。 |
昭和51年 | 2月13日山車庫完成。 |
昭和54年 | 4月15日旭町三丁目囃子会より旭町三丁目自治会に山車移管完了。4度目の巡行に際し祭典要綱を作成。 |
昭和57年 | 山車巡行隊形整備。 |
昭和63年 | 3月車輪新調成る。(61年発注) |
平成 元年 | 山車大改修着手。笠鉾型だった山車を二重鉾四つ車唐破風付の回り舞台の川越型へ |
平成 5年 | 山車大改修成る。棟梁は町内在住の高山榮次氏 |
平成10年 | 旭町三丁目囃子会、川越祭囃子保存会に加盟。 |
平成13年 | 松平信綱公を人形とすることと決し川崎人形店に発注。信亀会囃子連に改称。 |
平成14年 | 人形完成。盛大に人形お披露目式を行い、「信綱の山車」となる。市制施行80周年の大祭に際し、初の重点地区への巡行。 |
平成17年 | 「川越氷川祭の山車行事」国の重要無形民俗文化財に登録成る。 |
平成20年 | 大河内松平家当主が祭礼当日町内に来訪。人形と対面。 |
平成22年 | 9月11日旭町第二公園内に山車蔵落成。 |
平成24年 | 市制施行90周年の大祭10年振りの重点地区巡行。氷川神社初社参。 |
平成26年 | 彫刻新造着手 |
平成28年 | 曳き綱新調。ユネスコ無形文化遺産指定なる。 |
松平伊豆守信綱
(1596年10月30日生―1662年3月16日没)
参考文献:日本大百科全書(小学館)
江戸前期の幕府老中。徳川氏の地方役人大河内久綱の長子(幼名:亀千代)で、6歳のとき叔父松平正綱の養子となる。9歳で徳川家光に小姓として近侍、1623年(元和9)小姓組番頭、伊豆守(いずのかみ)に叙任。27年(寛永4)1万石。ついで老中 忍3万石(行田市)の城主となった。37年末、島原の乱鎮圧の命を受け、翌年2月鎮定。その功績により39年川越6万石(川越市)に転じ、47年(正保4)7万5000石に加増された。家光が死ぬと幕閣の頂点にたち、4代家綱を補佐し、松平定政事件や由比正雪の乱を処理、明暦の大火後の復興に努めた。才気あふれ「知恵伊豆」といわれ、逸話は多い。家光・家綱2代にわたり新参譜代の中心として幕政を運営、幕藩体制の確立に尽くした。すなわち、武家諸法度の改訂、参勤交代の制度化、鎖国の完成、寛永飢饉後の幕政改革に参画した。川越藩政の確立にも大きく寄与し、38年の川越大火後の川越城郭修築拡張、城下町の町割・復興と町制の整備(十ヶ町四門前町)、喜多院・仙波東照宮再建、新河岸川舟運の開設、荒川・入間川治水、慶安総検地の実施、野火止用水開削と武蔵野開発、勧農政策の実施などに努力した。現在、国指定重要無形民俗文化財に指定される川越氷川祭の山車行事(川越祭)は、慶安元年に松平信綱が祭礼道具一式を寄進したのが起源である。近世以降現在まで続く川越の繁栄の礎は名君松平信綱の功によるところが大きい。62年(寛文2)の逝去まで老中を勤め、岩槻の平林寺(翌年野火止に移転)に葬られた。