「素神会の生い立ち」
第二次世界大戦が終わり昭和二十一年と二十二年に日本国憲法発布と施行を祝って川越祭りが復活しました。西小仙波町は軍が使用していた牽引車という、箱にタイヤが付いた物が市民グランドに幾つもあるのに目を付け、それに飾り付けして引き回してお祭りに参加しました。その後町内の運送屋のトラックを飾り付けて二~三回参加しました。しかし他町会が立派な山車を曳いているので当町会も山車を造ろうという機運が高まり、秩父神社の御神木の欅を譲り受けて元の方を元町一丁目、末の方を西小仙波町が使用し、木目の美しさを見せるように漆を塗らずに白木のままの山車を昭和三十二年に完成させました。
山車持ち町内では近在の農家の人達の囃子連を頼んで山車に乗ってもらっていました。西小仙波町はトラックの時代から南大塚の囃子連が乗っていましたが、昭和三十年代後半になると著しく経済が発展して農家の人達も会社勤めに出るようになり、お祭りにも支障を来すようになってきました。
山車が有ってもお祭りに参加出来なくては大変と幾つかの山車持ち町会では町内の若者がお囃子を習い始めました。
「竹生会の歴史」
西小仙波町では町内の時田小児科医院の院長時田勝輔氏が、主宰していた竹の子クラブという青年会が主体となって町内の若者を集め、時田勝輔氏が市内の病院を回って寄付を募って昭和四十三年夏から準備を始め道具一式を揃え、十月の川越祭り後の土曜日から川越市上寺山の時田勝輔氏の本家の蔵を借りて、越生本町の親和会囃子連を先生に迎えて神田大橋流の稽古を始めました。
竹生会という名は竹の子クラブの竹と越生の生を採って命名したものです。
一年後の昭和四十四年のお祭りには町内に舞台を組んで川越祭りに初参加しましたがまだ竹生会会員だけではおぼつかないということで越生親和会にも手伝って頂きました。
昭和四十五年のお祭りに始めて西小仙波町の山車に乗って演じました。皆張り切りすぎて一日目で手のひらにマメが出来て痛くて大変だった思い出があります。後に静か物の曲を習いたいと越生親和会囃子連の師匠筋に当たる飯能市通二丁目親和会囃子連の島田笛童氏に師事し選抜された者が数名毎週稽古に通いました。
昭和四十八年から町内在住で旧神田市場に店を出していた内田誠さんの紹介で、神田囃子の本家である神田囃子保存会の重鎮、小林一奏先生を招いて正調神田囃子を伝授して頂きました。一奏先生は毎週御徒町の自宅から川越まで熱心に教えに来ていただき、基本の神田囃子の他、お祝いの席で演じる寿獅子舞や大黒舞も教えていただきました。
小林一奏先生から教授を受けた兄弟弟子に神田明神、赤坂日枝神社、根津神社、下谷神社等の氏子の囃子連があることから江戸の三大祭り「神田祭、山王祭、根津権現祭」にも参加しています。
舞につきましては、あちこちの近在の囃子連に出向いて教えていただきましたが、筋だってきちんと教えていただける先生が見つからず困っていたところ、縁あって砂新田の梅沢庄太郎氏に師事するようになり、毎週町内会館でおかめ、もどき、天狐、たぬき、猿などを習いました。同じ手を何回も使うなとか手や指の使い方とか結構厳しく指導されました。梅沢さんは若いときに歌舞伎芝居一座で女形をしていたそうで、おかめの舞を得意とし、今福の囃子連に招かれて六軒町の山車に乗っていました。
私達の稽古の時に新しく囃子を始めた旧市内の囃子連の若者達も集まってきて一緒に稽古に励み舞のレベルが急激に上がったと思います。
川越の踊りは山車の上で舞う踊りなので上体の所作が主体で足は殆ど使いませんので歩くことが苦手です。舞台で踊る時は舞台を大きく使えずに困まっていました。
竹生会創立三十周年記念式典の時に神田囃子の兄弟弟子や市内の囃子連や師匠方々を招いて披露するのに舞台でどの様に踊ったらよいか困っていました。
会員の誰かが神楽師から習いたいと言い出し、小林一奏先生のお仲間の草加市柿ノ木の神楽師駒崎豊治さんの娘さん通子さんが教えてくれることになり、舞い手の主だった者達が稽古に通い山車の上の踊りと舞台での踊りを使い分け出来る様になりました。当会の踊りはこの時に教えていただいた所作が基本となり梅沢さんから習った物を融合させて現在に至っています。